【小説】カミングアウト

創作

 おせち料理も三日目となると誰も手を伸ばさなくなる。
 海老やハムは早々に食い尽くされ、煮しめや昆布巻きだけでは米が食えないということで、追加のおかずを作ることになった。

「唯ちゃん、その指輪」

 台所に並ぶ伯母は、野菜を切る私の薬指を穴のあくほど見つめて言った。

「ああ。うん、婚約したの」
「婚約!」

 高く弾んだ伯母の声に体がすくんだ。相手はどんな人、指輪はどこで買ったの、結婚のお話はもう出ているの……。
 そら来たぞ。乱切りにした大量のジャガイモとニンジンを鍋に入れつつ、矢継ぎ早に飛んでくる質問をさばいていく。
 優しい人だけど、結婚はまだ考え中。指輪は本通にあるセレクトショップで。頭の中で、架空の彼氏がにこりと笑った。
 玉ねぎを切ったから涙が出る。そんな私を伯母はほほえましそうに見ていた。

「婚約までしとるんなら、はよう籍を入れたほうがええよ。そのほうが安心じゃろ」

 私はあいまいな笑みで頷いた。沸騰した鍋に玉ねぎも投入し、落とし蓋をする。
 ここに母がいなくてよかった。こんな形でカミングアウトする予定はない。
 私にとっては親戚が帰ってからが本番だ。そのために、流行り病を言い訳にして数年戻らなかった田舎まで足を運んだのだから。

「で、どんな感じなの」

 伯母は少女のように目を輝かせている。

「いまいち味が決まらない感じ。何を足したらいい?」
「何言ってんのよもう。肉じゃがの話じゃなくて、彼氏よ、彼氏」

 味付けの立て直しをお願いすると、伯母は腕まくりして鍋の前に立った。しょう油とみりんを出し、さじで少しずつ足していく。

「一緒に暮らしとるの?」
「うん。少し前から」

 伯母は何度か味付けを確かめ、満足そうに頷いた。渡された味見皿を口に含むと、母の肉じゃがとまったく同じ味がした。

「じゃあもう結婚じゃろ。何が問題なん」

 少し間を空けて「まあ、ちょっと」と含みを持たせると、伯母も追及してこなかった。

「早い方がええよ。子どもを育てるのは若いうちのほうが何かと楽じゃけえ」

 伯母が力を込めて言うのには理由がある。伯母と母は七歳離れているが子どもを授かったのはほぼ同時期だった。従姉の愛ちゃんは七カ月ほど私よりお姉さんだ。そのせいで子育て中はしょっちゅう「腰痛が」「体力が」と嘆く伯母の姿を目にしていた。
 残念、お門違い。そう思いながらも、私の口は貝のように閉じたまま笑みをかたどる。

「唯ちゃんとこういう話ができるの嬉しいわあ。家じゃできんけえね」

 伯母は、まな板を洗い桶に漬けながら重いため息をついた。

「愛は私に似ちゃってなかなか子どもができんのよ。本人も悩んどるけど、こればかりは授かりものじゃけえ」
「愛ちゃんは今日来ないの?」
「いや、もう来るんじゃないかねえ」

 本人がいない場所で話してよい内容なのだろうか。私の懸念をよそに、伯母の口には勢いがつく。

「唯ちゃん、都会に住んどるじゃろ。ええ病院があったら教えてちょうだい。うちら田舎におるけえ、あんまり情報が入らんのよ」
「はあ」

 今すぐここから逃げ出したい気持ちに駆られた。しかし、料理を伯母に丸投げするのもためらわれる。せめて愛ちゃんがもう少しだけ遅れて来ればいい。私の薄情な願いは、引き戸の開く音であっけなく破られた。

「唯ちゃんじゃん。久しぶり」

 従姉は、スーツのまま台所にやってきた。休日出勤して、会社から直接帰省したのだという。肩には雪が散っていた。朝方止んだ雪が再び降り始めたようだ。外を見れば路面に美しい白のじゅうたんを敷いていた。

「またそんな寒い恰好して。冷えは大敵って言うたじゃろ。ほら、これ」

 伯母はチェック柄のブランケットを渡しながら、愛ちゃんに耳打ちした。

「唯ちゃんにも相談してみんさい。病院とか教えてくれるって」

 伯母のひそひそ声は、鍋の煮込む音しかない空間によく響いた。愛ちゃんの驚いた顔と視線がぶつかる。私は急いで鍋を確認するふりをした。
 突然、居間に続く引き戸がガラリと開く。

「ビールが切れたぞ」

 と大声を飛ばしたのは伯父だ。返事も待たずにそそくさと居間に引っ込んだ。やれやれといった様子の伯母がビール瓶を二本持つ。

「自分で取りにくりゃあええのに。いい、唯ちゃん。結婚って忍耐よ。相手をどれだけ許せるかで幸せが変わるけぇね」

 にぎやかな伯母がいなくなると台所は急にひっそりとする。伯母の置いていった空気はさっそく私と愛ちゃんの忍耐を試していた。先に口を開いたのは愛ちゃんだった。

「ごめん。うちの母が何か言ったみたいで」
「ううん何にも」
「気にしないでね。私も気にしてないから。他の人にも筒抜けなのよ。玄関で唯ちゃんのお母さんにも会ったんだけど『大変らしいけど頑張ってね』って言われちゃった」

 どきり。心臓が嫌な音を立てた。頭の中が一瞬で冷えたかと思うと、すぐに沸騰して痛みを訴えてくる。

「ごめんなさい」
「ああ、違う違う。唯ちゃんのお母さんがどうとかって話じゃないの。うちの母よ。あの人の拡声器っぷりはもう体質だよね」

 わざと明るく振る舞っているように見え、愛ちゃんの顔から目をそらす。窓の外では、積もった雪が散歩中の犬と人に踏み荒らされてぐちゃぐちゃになっていた。
 自分の信頼と誠実を受け取ってもらえない悲しみは、あのぐちゃぐちゃに似ている。
 私にも覚えがあった。中学生のとき、ずっと抱えていた悩みを母に打ち明けたのだ。父が帰宅する前の、夕食の時間を狙った。
 毎週見るお笑い番組が流れている。しかし私の耳には自分の心臓の音ばかりが届いて、芸人の声は右から左へ通り抜けていた。

「お母さん」
 ドキドキ。

「あのね、私、もしかしたら女の子が好きかもしれん」

 口から飛び出した途端に、怖くなってうつむく。言ってしまった。肉じゃがの照りを理由もなくじっと見つめる。
 受け入れてくれるだろうか。それとも何を言っているのと問い詰められるだろうか。
 ドキドキ。
 口の中が乾いて茶を飲む。まっすぐに母の顔を見るのが怖くて、コップの底越しに顔色をうかがった。
 ドワッ!
 テレビから観客が沸く声がした。母の視線はそちらに釘付けで、私のほうには寄越されていない。

「お母さん」

 聞こえなかったのかもしれない。大きくなる心臓の音をかき消すように、私は努めて声を張った。

「あのね。私いま好きな人がおって」
「それって」

 母の声が私の言葉を遮る。よく見ると母の横顔は強張っていた。

「友達の好きじゃないん?」

 その言葉に、私は母の荒波を感じた。私の思いを流してしまおうとする波が、すぐ目の前まで迫っている。圧迫感で言葉を紡げずにいると、母はやっと私のほうを見て、「友達の好きよ、きっと」と言い直した。何か重い物で頭を殴られたような心地がした。

 若いうちは、いろいろ迷うこともあるの。いつか本当に好きな人ができたら唯も気付くけえ大丈夫。

 耳からなだれ込む母の一言一句が胃の底に溜まっていく。私が言い返せないうちに、母はまたテレビのほうを向いてしまった。
 そういえばあの日も肉じゃがだった。口に残る肉じゃがの香りが、記憶と結びついて胃の底をちくりと刺激してくる。
 愛ちゃんも私みたいな気持ちを伯母に抱いたのだろうか。想像するだけで胸が張り裂けそうになった。

「それ肉じゃが?」

 手元の鍋をのぞきこんでくる愛ちゃんに、半歩ほど場所を譲る。

「うん。伯母さんが味付けしてくれた」
「どれどれ」

 愛ちゃんは煮込み中の鍋の蓋を遠慮なく開けた。甘さと辛さの入り混じった空気が、白い煙となってむわりと立ち昇る。味見皿に少しすくって口に含むと、伯母によく似た顔で「なんか足りないなあ」と眉をひそめた。

「仕方ない、秘策行きますか」

 そう言って愛ちゃんが冷蔵庫から取り出してきたのは焼き肉のたれだ。私が止める間もなく、鍋の中にたれを垂らしてかき混ぜる。煮汁の色は変わっていないように見えるが、再び味見をした彼女は満足そうだ。

「味、変えちゃって良かったの?」
「こっちのほうがおいしいもん。ほら」

 取り分けてもらった煮汁は、先ほどよりコクが増していた。もっと濃くなるのかと思っていたけれど、白滝を一緒に投入したから味が和らいでいる。
 こんな作り方もあったのか。私はレシピ本に載っている作り方をそのまま覚えるから他の方法を試そうと思ったこともない。
 目を丸くしていると、愛ちゃんは「これ、秘密ね」と前置きをした。

「うちに子どもができないのって、実は翔太のほうに原因があってさ」

 愛ちゃんの連れ合いの名前が思わぬ形で飛び出してきて頭が真っ白になった。もつれそうな口でどうにか心配の体裁を装う。

「そ、それって伯母さんには」
「言わないよ。見て、この状態」

 愛ちゃんは伯母が手渡したブランケットをマントみたいに広げた。

「男性不妊だなんて言ったら、今度は翔太がブランケットでぐるぐるよ。体にいい食べ物とか勧めるし、そう、こないだなんて高そうなサプリまでもらっちゃったんだから。すごいよね、どこで調べてくるんだろう」

 愛ちゃんは次々と言葉を並べ立てる。下手に触れたらドミノのように倒れてしまいそうで、言葉を差し込めない。
 平気なのだろうか。実はその笑顔の下に、傷ついた心を隠していたりして。
 私は今度こそ慎重に言葉を選んだ。

「愛ちゃんは、つらくない?」
「私?」
「うん。伯母さんは愛ちゃんのことを誤解してるわけじゃん。それってしんどくないの」

 愛ちゃんは、少し考える素振りをした後、首を横に振った。

「言って翔太がしんどくなっちゃうほうが嫌かな」
「……伯母さんには、『他の人には言わないで』って言ったら?」
「無理無理。三日で広まる。賭けてもいい」

 愛ちゃんは歯を見せて笑った。一片の曇りもない晴れやかな笑みだ。私が架空の彼氏に頼るのとは訳が違う。
 なんて眩しい人だろう。私よりも背の低い愛ちゃんが、ぐんと大きくなったように見える。何だか負けたような感じがして、私は背中を丸めた。

「なぁんてね! 私が詳しく話したくないだけなんだけどさ」

 だから、そんな言葉が出てくるなんて予想もしていなかった。
 思わず聞き返す。火を止めて無音になった空間に、私の間抜けなオウム返しだけが響いた。

「私もこうなるまで知らなかったんだけど、不妊の大変さって予想以上でさ。仕事との両立とか毎月の診療費用とか……そういうの、いちいち母に知らせるのもね」
「心配を掛けたくなくて?」
「それも、ある」

 愛ちゃんは苦笑いを零した。

「でも一番は、母には理解できないからって理由」

 ちょうどそのタイミングで、居間から笑い声が沸き上がった。母が引き戸を開け、顔をのぞかせていた。空のビール瓶を握り、私と愛ちゃんを交互に見る。

「そんなところで何話してるの」
「ただの雑談だよ。もうビールがなくなったの? さっき持って行ったのに」

 答えたのは愛ちゃんだった。二言三言やりとりすると、冷蔵庫から新しい瓶を取り出した母が「おいで。ここは寒いじゃろ」と私たちを居間へ誘った。
 頭の中で愛ちゃんの言葉を反芻する。理解できないからって諦めていたら永遠に伝わらないんじゃないの。
 寄り添おうとしていた気持ちが急に突き放された気がした。彼女ほど美しい考え方はできないまでも、せめて抱えるつらさには共感できると思ったのに。身勝手な親近感が、行く先を失ってどうにも立ち行かない。

 母に連れられて居間に赴くと、親戚はみな小さなコタツに足を突っ込んでひな鳥のように身を寄せ合っている。テレビで漫才を披露するお笑い芸人を見るともなく見ていたり、誰かが持ってきたお土産の名菓を食べたりと思い思いに過ごしていた。
 父に至っては赤ら顔を上に向けて大きないびきをかいている。母がビールの栓を抜くと、待ってましたとばかりにコップが差し出され、あっという間にそれぞれの手元に分かれていった。
 私と愛ちゃんがコタツに座ったのを確認すると、伯母は大きく咳ばらいをした。伯母の口が開くのがやけにゆっくりに見えて、嫌な予感が背中を走った。

「唯ちゃん、婚約したんじゃって」

「あっ」と声が漏れてしまった。こんなはずでは。私はすぐさま母の顔色をうかがった。一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに人当たりのよい笑顔に切り替わっていた。
 ひな鳥の反応はというと、ちらりと視線が寄越されただけであった。誰が会話を引き継ぐか悩んでいるのか、ちびちびとビールが減るばかりで、コタツの上には水を打ったような静けさが広がる。

「幸子もこれで安心したねえ」
「ええ……」

 伯母の話の受け皿に選ばれたのは母だ。架空の彼氏の話が、伯母の口から真実味を持って語られ始める。
 今日のために丁寧にまとめてきた真実が目の前で書き換わっていくことにめまいを覚えた。誤解だと叫びたい。だけど、そうすると皆の前で説明することになってしまう。
 恥じることではない。動画や本を見て何度もイメージし、彼女に付き合ってもらって受け答えの練習さえしてきた。きっと上手に説明できるだろう。だけど、その後は? 皆がどんな顔をするのか予想もつかない。
 強張っていく母の顔に口を開きかけたとき愛ちゃんの明るい声が会話を遮った。

「唯ちゃん、見て」

 愛ちゃんが見せてきたスマホの画面には、コンビニの新商品が紹介されていた。牛カルビの写真が付いた焼きおにぎりだ。

「これね、実は私が考えたやつなんよ」

 愛ちゃんの声がにわかに高くなった。聞けば、愛ちゃんの働いているコンビニでおにぎりの具材のアイデア募集があったという。中四国部門の社内コンペで彼女の企画が採用され、商品化したのだ。

「すごい! 何味?」
「焼き肉のたれ味。たれの研究がもう大変でねえ、たれというたれを買いつくしたわ」

 頷いていると、普段あまり口を挟まない伯父も珍しく会話に参加してきた。

「おかげでこっちは母さんが毎週同じ弁当を買うてくるんじゃけえたまらんよ」
「よう言う。毎回嬉しそうに完食するのはどこの誰かいね」

 そう言って伯母が会話に乗ってからは、流れが完全にこちらに傾いた。話題は転がっていき、果ては「健康がいかに大切か」という話にまで流れる。伯母がネットで買った健康器具の失敗談を披露し、テレビに負けないくらいの笑い声が沸き起こった。
 誰かが「早めの晩ごはんにしよう」と言ったのに乗じて、私は台所に逃げ込んだ。胸にこみ上げたのは強烈な安堵だった。
 引き戸の向こうを振り返る。そこにいたのは不妊治療のパートナーではなく、自身の功績を誇らしげに語る社会人だった。
 何となく、愛ちゃんが「詳しく話したくない」と言った理由がわかった。もし彼女の事情が広まっていたなら、今ごろは不妊治療のパートナーとして身を案じられていたことだろう。事実、私がそのように愛ちゃんを見ていた。羞恥に頬が熱くなる。
 私が自分のことを公表すれば、親戚は真剣に考えてくれただろう。だけど、彼らの中で私は「レズビアンの唯ちゃん」になって、それ以外の情報は抜け落ちてしまう。それくらい大きな話になるからだ。何年も事実と向き合ってきた私とは違って、彼らには何の準備もないのだから。
 あの日の母はどうだったのだろう。楽しそうな愛ちゃんを見ながら、ふと考える。私がレズビアンだって、考えたこともなかったのではないだろうか。今になってようやく、その考えが浮かんだ。
 寒いながらも日光は十分届いていたようで、路面の雪はすっかり溶けて水たまりを作っていた。案の定、残ったおせちには箸が伸びない。その分、肉じゃがが飛ぶように売れた。特に父は気に入ったようで、せっせと自分のお皿に取り分けていく。

「これ唯が作ったのか」
「味付けは伯母さんだよ」

 父に褒められた伯母は満更でもない様子で肉じゃがを頬張っている。

「今日は、いつもよりおいしくできたかも」

 焼き肉のたれが混ざっているとは少しも疑われず、大皿は空になった。

 何だ、こんなものか。

 おかしくなって笑いが零れた。私は今日、何が何でも両親に近況を話さなければならないと思っていた。薬指の指輪には、私の挑戦的な闘志が張り付いている。
 そうして高めた気持ちが、空の大皿を見たら大人しくなっていく。肉じゃがの種明かしなんてなくても、世界は勝手に回るのだ。
 私は売れ残った数の子をかじりながら空いた皿を下げた。
 流し台の前には母が立っていた。後ろ姿をじっくりと見ると、丸まった背が昔よりも随分縮んでいることに気が付いた。一つ結びにした髪の根元からは、白髪の塊がのぞいている。

「お母さん」

 呼びかけると、母はハッとした表情で振り向いた。口は真一文字に結ばれ、視線は私の薬指に注がれる。
 しかし不安そうな眼差しは、今度はそらされることはなかった。
 私は心に灯った明かりに押されるようにして、緩やかに口を開いた。

(了)

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【後記】
 多様性・ジェンダーをテーマにしたお話です。
「人は人を完ぺきには理解できないけれど、それでも誰かに伝えたいのはきっと誰かに分かってほしいからだよね。そうやってチャレンジすることは尊いことなんじゃない?」みたいなことを考えて書いたのでした。
 電車で真向かいに座ったおじさんも、学校の購買でいつも見かける上級生も、たまたま街中ですれ違ったおばあちゃんも、きっといろいろなことを抱えているのですけど、おくびにも出さず過ごしている(ように見える)のが面白いところだなあと思います!

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